実録小説:あの日、僕は○をした

あの日、あの瞬間。僕はとてもドキドキしていた。

今でも忘れることができない。鮮明に覚えている。

secret

出勤ラッシュで混雑する札幌中心部。僕は、彼女を横に乗せてステアリングを握っていた。やっと雪が解け、大通公園の草木が朝露の光でキラキラと輝く気持ちのよい季節だった。

車はなかなか前に進まない。少し走っては信号につかまり、また少し走ってを繰り返す。アクセルを軽く踏み込んでほんの少し加速し、僕の気分もそれに連動するかのようにちょっとだけ高まる。ブレーキを踏むとちょっと落ち着く。

いつもはそんな時間に街中を走ることはないのに、たまたま僕が休みの日に彼女に急な仕事が入ってしまったから、用事もないし送っていくことになったんだっけ。

半同棲みたいな感じで、お互いの家を行き来していた生活がもう2年近くになる。出会った当初の新鮮さみたいなのは少しずつ削られて丸くなり、日常に少しずつ溶け込んでいた。

将来について真剣に話し合ったことはなかったけれど、お互いどこかで“完全に溶け込む日”は意識していたんだと思う。

昨夜は、彼女が久々に手料理をごちそうしてくれた。僕の大好物な、ちょっと甘めのカレーライス。サラダつきだ。たしかデザートはヨーグルトで、プレーンが苦手な僕のためにブルーベリージャムを入れてくれた。

学校を卒業して一人暮らしを始めてからは外食とかコンビニで済ませることが多く、とくに不満はなかった。付き合い始めたあとも、お互い仕事があるので外食がメイン。でも、こうやって手料理を食べられる生活も悪くない。

誰かが言ってたけど、食べ物の好みが合わなければ、結婚生活はうまくいかないんだってさ。あと、におい。体臭は遺伝子レベルで惹かれあう要素で、においがキツく感じるならそれは本能的に合わない相手らしいよ。

そんな話をした気がする。

別に結婚の意思を確認したわけじゃないけれど、いつになくポカポカ暖かい、幸せな気分だった。もしかすると、彼女もそうだったかもしれない。僕らはいつものように寄り添うかたちで眠りについた。

たぶん、夢を見たんだと思う。それが正夢だったと気づくのはそれからしばらく経ってのことだけど、僕の横にはあいかわらず彼女がいて、なぜか不安そうな僕に微笑みかけてくれていた。

ああ、この先ずっと一緒にいるのはコイツなのかもしれないな。夢を見ながら、そんなことを考えていた気がする。

翌朝、彼女の「おはよう」の笑顔にちょっとドキッとした。僕はあらためて彼女に恋したのかもしれない。なぜかわからないけれど、今日は特別な日。そんな予感がする。

春の陽気も手伝ってか、昨夜のことを思い出しながら僕の胸は変に高鳴っていた。心もちステアリングを握る力が強くなり、なんていうかソワソワして身体が宙に浮く、そんな不思議な感じ。

夢のことは彼女の笑顔しか覚えていなかったけど、その笑顔で得られた安心感みたいなものが現実に引き継がれていたのかもしれない。

「あのさ」

ん? 僕はいったい何を言おうとしているんだ。

まわりには仕事に向かうであろうおっさんが運転する車、クルマ、くるま。ありふれた日常の光景。いくらふたりきりの空間だからといって、こんなシチュエーションじゃロマンもなにもあったもんじゃない。彼女は、けっこう乙女ちっくなところがある。ダメだ。

「なに?」

「い、いや、なんでもない」

焦ることはない。いま、この瞬間じゃなきゃダメってことはない。なるべく外の景色を見て、先走る自分の気持ちを少し落ち着かせようとした。

だけど、どうしてだろう。

落ち着くどころか、胸の鼓動が速くなってきた。

このまま想いを告げれば、彼女がすんなり了承してくれるであろうことは予想できる。ぜんぜんロマンチックじゃなかった、と後で冗談っぽく言われるかもしれないけど、変にお膳立てするより僕には合っているのかも。

チャンスはつかむもんだ、ってよく会社の上司に酒の席で聞かされた。誰でも人生で3回のチャンスが訪れる。素早く目の前を通り過ぎる、そのチャンス君を捕まえたやつだけ成功できるんだ、って。

いつもとちょっと視界が違うことに気づいた。透明度80%ぐらいの白いフィルターがかかっているような感じ。そして、車の中と外で時間の流れが違っている気がする。

なにかが微妙にずれている。目の前をチャンス君が通りすぎる瞬間は、時空にゆがみが生じるんだろうか。

「あ、あのさ」

あれ、声が震えてるよ。プレッシャーには強いはずだったんだけどな。

「ん?」

「なんつーか、突然でアレなんだけど」

「え?」

なに言ってんだ。

「い、イヤならハッキリ言ってほしいんだけど」

そういう言い方って卑怯だろ。正々堂々と男らしく言っちまえ。

「なに?」

「だから、つまり…」

ここまできたら、もう後戻りできない。ぜんぶ出すしかない。このドキドキを。このモヤモヤを。ほら、早くしないと彼女が変な顔で僕を見ている。

赤信号。外の騒音は遮断され、体内の血流音が聞こえる気がする。喉がカラカラに渇いている。今だ。今まさにチャンス君が通りすぎる瞬間だ。

キタコレ

「ごめん、もれる。てか、出る」

「はぁぁ!!??」

「あれだ、昨日のブルーベリーヨーグルトがぁぁぁ、う、うぉぉぉ…、げ、限界だ…」

彼女は一瞬の戸惑いをよそに、不安そうな僕に微笑みかけてくれた。何も言わず、この現実を、この状況を受け止めてくれた。

ああ。やっぱり、これからずっと一緒にいるのはコイツしかいない。

あの日、僕は車内で大をした。

あとがき

お食事中のかた、ほんっっっとうに申し訳ありません!

多少、脚色しておりますが、実話です。若気の至りです。許してください。

あれからウィンドー全開で彼女を会社に送り届けたあと、自宅に着いて生まれたての仔馬のような足取りで風呂場へ直行しました。

で、彼女とは本当に結婚しました。

めでたしめでたし。